昭和40年12月13日 夜の御理解
「信心する者は、何事にも信心になれよ。」と、信心するものは、何事にも信心になれよ」と。
果して私達は何事にも信心になれておるだろうかと。もしこのことにはなれてもこの事にはなれていないとするなら、それだけでも成る程、おかげを受けられんはずだということを問わなきゃいけんと思うね。何事にも信心になれよと、いうならば、何事にも実意丁寧になれよと、神信心する者は何事にも実意丁寧になれよと、と言うことになると思う。ね。「信心する者は何事にも信心になれよ」と。
「木の切り株に腰を下ろしても立つ時には礼を言うような心持ちになれよ」と仰っておる。いわゆる、何事にも信心になるということはこんなことだと思う。ですから、お道の信心をさせて頂く者はね、ここんところに一つ本気で取り組まさせてかんにゃならん。ね。そういう心の状態、何事にも信心にならせて頂くという事がです、必ず、心に安らぎを許される事であり、喜びを神様から又送って頂けて、有り難い、いわゆる、勿体無いという生活が出来るおかげになるのです。
「平重盛」という人が、大変天皇陛下の、御寵愛を受けただけではなく、非常に、終身、天皇陛下に対する、忠義の心の厚いお方でもあった。同時にまた、大変親孝行の方でもあった。ところがその、肝心のお父さんというのが平清盛ですね。( ? )戦を起そうということをもくらんでおる。それを、知られたときに平重盛が、嘆かれたと有名な言葉があります。ね。
忠に忠ならんと欲すれば、孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず、と嘆げかれたと言う事です。お父さんの言うことを聞きゃ、天皇陛下に対する不忠になるし、というて、天皇陛下へのただ忠義だけをしとけば、親にいよいよ背かなければいけないし、自分の身一つでどうにも出来ない、というてその、嘆かれたということです。いや金光様のご信心をさせて頂くものはみなそれとよく似とると思うんでえすよ。
神様にばっかり一生懸命になっていけばよかろうばってんから、生活していかなんならんけん。ね。その、神様の仰るとおりにばっかりいかん。人間じゃから、やっぱ、人間付き合いせんならん神様付き合いせんならん、というような意味のことをよく申します。もう私共がそうでした。お商売をさせて頂くのにね、もう本当に、神様が( ? )いうなら、もう神様が10銭のものは8銭にと仰るのだけれども。
商売はそんなわけにはいかん。というてから、10銭のものが11銭頂くとがおかげのように思うておった時代があったんです。まあそれでなるほどおかげを頂いた。目先目先のおかげを受けたけれども、本当のおかげにならなかったと言う事。いかにも人より2銭も3銭もよけいに儲かったごとあるけれどもです、ね、いよいよ最後にそろばんとってみると、やはりいけなかったということ。ね。
教えに忠実でなかった。そういう信心をしておる人がどの位あるか分かりませんですね。お道の信奉者の中にも。ね。これではね、やはり本当のおかげが開けて来ませんです。今日は、久留米の(?)さん久しぶりに御礼に出て見えられましてから、昨日のその、長男、長男ではない二番目の息子が高校そして大学ですか、大学に行きながら、アルバイトをやっております。
それがその昨日、お母さんが言うことがです、「お母さんこの頃椛目にお参りしよるか?」、「お参りしよるじゃないもう、信心しよる、あの信心まだしよるか」とこう言うわけ。「信心しよるじゃないなら朝晩ちゃんとお燈明上げて拝みよるが」ち。「もう椛目に参りよるか」ち。「参りよるよじゃんもう月何編な、この頃あちらのここから銀行努めておられましてね。
そこのお金を持っていきよったけれども、最近はそれをやめておっりました、行かんけれどやっぱりお参りしておるよ」ち、「ああそうならいいばってんから」ちその、言うた。「やっぱ僕は神様のおかげを頂いとるとよち、お母さんが信心するけん、やっぱご守護を受けておるとよ」と言うてその話した事がです、もう十何日前の話だった。それがですね、福岡からあの飯塚のほうへ行く、篠栗の方へ行く道があります。
あちら私この頃始めて通ったのですけれども、成程ずうと崖のような所を通っていかなくてはいけないですね。そこから自動車が転落しておる。もう自動車はめちゃくちゃになった。もう転がって落ちるうちに「金光様金光様」と唱えることも、何遍も唱えたち。「はあー、これで大怪我するじゃとう」と思うたら、いよいよこれで難しいかもしれんと、色々思うはだがあったそうです。ね、
そうでしょうね、そこに引っかかり、ここにごろごろ転がんで行くもんですから、向こうの方の、女の運転手さんだったそうですから、その運転手さんともう兎に角重なりおうてから、ごつごつ頭を打ちながら、下へ落ちたち。ね。そして落ちとて見たところかところがです、もう2人とも奇跡的に、どうも、いわゆる、かすり傷もしていなかったというほどのおかげを頂いた。
だたこの手にそのガラスの破片が残ってどうしても取れなかった。勿論それを引き上げるのに三時間もかかった。沢山の人が手伝うてくれた。「とにかくはよこう血がこう流れておるもんじゃから、はよ病院に行けと行って見なさいどっこ打ち所が悪かなら大変だから病院に行け」というて、教えられた所があの精神科の病院じゃった。そしたら「ああそこにピンセットがありますから自分で抜きなさい」といわれたそうです。
「赤チンもそこにあるから」ちいうて、だからそのピンセットを借りて自分でガラスをとって、そしてその自分のそのこうやって赤チンをつけて、包帯をそこにあるとをもろうてその、包帯をして「治療費はいくらでしょうか」というたら、あんたが治療したちゃけん、あのいるもんかいちもうおかげを頂いた」と思うて帰ってきた。「お母さんそん時ばかり、あれがおかげというとじゃろう。
僕はついとったとふうに思うけれども、やっぱりおかげであろう」と。「まだこの稲がたっておった。所が僕だんが落ちた所だけがです、その刈り取ってあったげなけんで、勿論お百姓さんにも断りにいったけれども、この稲の方にしておるなら幾らか金貰わなんばってん、ここやけんでお金ばいらんがの」ち言うてから、その「かせして貰うた上その、怪我せんでよかったのうというて喜んでもろうた」とこう言う。
アルバイトで自分が運転免許をもっとけ自分が運転しとったけれどもですね、女の人はそこの社員さんでですね、上役の方だったらしい女の人。それがその運転免許は持たんけれども、そのやはりベテランといわれるくらい運転だけが上手だそうです。「もうあんたより私がやってごらん」ちいうてから替わった途端に落ち込んだち「だから僕の方が、修繕費が七万円掛かったそれで結局その、女の社員の方が負担する事になった。
そのもう僕はただ、あんたがお願いしょうがなかろうち。もうとにかくもう何から何までついとったとよお母さん、是もおかげを頂いたとよ」と言うてから、もう私はそれを聞きよってから身が縮む思いをしたち。もう本当におかげを頂き、神様のご守護を頂いて、もういつもかつもこげなご守護を頂いておるけれどもでしょうけれども、もうそげな事があってみなければ分からんとこう言わけなん。
まあこれは余談ですけれども、そういう事の為に今日はお礼参拝をして来たんですよ。そしてその色々お届けをする中に、申します事その息子が言うことですげなも、ね、「お母さんもう下?じゃけん上?じゃけんというてからね、呼ばれもしなさんなて、もう頭をどげん下げたったちゃ損なせんとじゃけんで、もう下から行くことが一番よかばい」ち「もう、こうやって下のもんにでん頭を下げる、だれでん悪い気色はせん。
そしてからこれは、確かに人間になるとじゃけん、どうでんこうでん、頭だけは下げんの」ちその。もう本当に負うた子に、浅瀬を教えられちゃ、この事で御座いますちゃこの事でますてその、私どんがそのやはり、銀行に勤めておる時に、下役の人達がぷんとしておると却って、こちらがもやもやするち言う訳ですね。けども子供が、そう教えてくれたとこう言われる。
そうけど、今日は13日会で、ちょうどあの、熊本から(道林?)さんが来ておりましたのですあと総代さん方が10人ばかり残っておりました。その中での話ですね。何かの話からだったでしょうか、福島さんの話になったのですね。それが言うことがですね、「私がもう二度目の選挙に、町会議員に当選した時、北野のその丁度税務署が回ってきたち。それは丁度今考えてみると高芝さんだったそうですたい。
それでそのうちの家内が時々でん参りよるもんじゃけんで、あの、福島さんおめでとうございますち言うちから、その、言うた事を覚えとる」ち。で、高芝さんが帰った後に、「あげな奴と、あの、人相がようなかち、あげなっと付き合うなち私は言うた」ち。ね。そういう私がです、例えば辻さん達が椛目に椛目というて参りよると、「お前どんは椛目にばっかり参るなら・・?というとった私がです、ね、
何年間信心させて頂いておる内に、愈々いろんな事が分からせて頂いた」と。そして、今度はいよいよあの、保険をしておられますです。「親先生、色々の仕事の事をお届けするけれども、それはいけんこれはいけんといいなさらんもんだから、もう愈々自分は仕事はないじゃろうかと思うとった。ところがその、生命保険のその事をお届けさせて頂いたら、うんそれがよかばいち、いっぺんでいいしゃったから。
まあ、それで決めた所が、まあちょいとこれは保険の外行ばかりは、もう年中頭下げ・・?ならん。もう私は頭を下げるとが、もうその高芝さんち来なったっちゃ私どん、今日高芝さん側に、隣におるとにから、いもうこの人達・・・?なかった。・・・・?その私が今、高芝さん高芝さんち言うてから、頭を下げるごとなっとるだけでもおかげ」ち。ね。そういうて言われるのですよ。ね。
今日も、たった6万5千円の保険金げなもん。月千円づつしかもらわれんとげなもん、それでっちゃ三編も頭下げて頼みよる。ちょいと私も変わったもんであるちいうけんで、(?)ございましたけれどもです。「成程、先生が保険がいいと仰ったはずだと、ここを分からせて下さる為じゃった」というて、今晩言うております。ね。保険のそれが良い悪いじゃない。まだ頭が高い、ね。たかぶっとる。
俺は偉い、と思うておる、それがおかげが受けられんのだと。いくら頭を下げたっちゃです、頭下げたっちゃへるもんじゃなかから、こないだその息子じゃなかばってん、・・?お母さん下げんね、とこう言う。ね、そこは信心をさせて頂く者はですたい、「木の切り株に腰を下ろしても立つ時には礼を言う心持ち」でしょう。それは、いよいよそうしなければおられないものは、自分が分かることなんですよ。
どんなに人、(?)もう自分と、いうものが分かりだしたら、誰よりも一番下のところに、落ちていかなければ、仕方が無いのですもん、教えをもって鏡とするならば。ね。私ぐらいなものにです、私ぐらいなものに、ということになってこなですから、いわば頭いわば、さげなければおられないのである。いつも頭、地を低うして、おらなければおられんのである。
私は、お道の信心はですね、平重盛は「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば、忠ならず」というて嘆いたそうだけれども、ね、信心はそうではないけれども、信心をさせて頂く者も、そう言う様な事をいうて、本当の信心になっていかないものがどの位多いいか分からんという事。ね。教えを頂く時に成程、そうどこじゃない。そうどこじゃないばってん、人間じゃけんそう言う訳にはいかんと片一方じゃ。ね。
忠ならんとすれば孝ならずでしょうが、ね。神様に本当に地を低うする、神様にいくらさげたんぼうったっちゃ、( ? )信心がなかもんから言われるようなことではつまらんです。「あれだんは金光様に参りよるげなばってん、どんな教えを頂いてきよるとじゃろうか、椛目の先生はあげなこつしか教えらっしゃらんじゃろうか」と言うて、先生の事までいわば、神様の事まで。
いわば(?)結果になってくるのですから。ね。ですから信心とは、ね、これは人だけではありません。いわゆる木の切り株にでも頭を下げるのが信心なのです。まして、人間関係においてもであります。それもまだ、お互いがです健康のために頭を下げるのじゃない、さげなければおられんのである。そこを分からせていただかんといけんと私思うですたいね。神様に頭を下げると言う事は、ね、
頭を地を低うすると言う事は、人にもまた神の氏子としての、頂き方と同時に自分自身の、ね、氏子として難儀な氏子としてのです、屑の子としてのです自覚がです、自分も地を低うせなければおられんのであり、同時にあの人とても矢張り神の氏子であると言う事なんである。これだとも神様の恩物であると言う事なんです。ね。だから押し頂かなければねばおられんのであり、地を低くしなければおられんのであり、ね、
いわゆる忠に、忠ならんと欲するならです、本当に忠に、忠ならんと欲するならばです、必ず、親孝行も出来るのがお道の信心なんです。本当の信心はです、本当に神様の御教えを頂かせてもろうて、ね、神様の御教えを日常生活に頂いて、こちらを向いても、こちらを向いても、同じ事をさせて頂いておれば、いいのであり、それが実意丁寧であり、それが信心する者は何事にも信心になれよと仰る。
私は信心だという風に思うのです。ね。どうぞ、皆さん今日のご理解を頂いてです、成程、おかげを頂けんはずだと、半分のほうは頭が下がりよるけれども、半分のものは頭がさがっていないとするならばです、それだけでも、そこから、おかげはもっておるという事を悟らなければならないと思いますね。
どうぞ。